自動運転車 死亡事故に正直モヤモヤする(田舎でも乗らないが正解か…その2)
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こんにちは、のじしおと申します。
先日投稿した記事で、車を運転することで背負う多大なリスクについて書きました。
↓ちなみにこちらの記事です。
その中で、車の自動運転化についても、今後の動向にも注目かなぁと言っていた矢先、タイムリーなニュースを見かけてしまいましたのでちょこっと紹介。
自動運転車のニュース記事についての考察です。
(米)ウーバー 自動運転の走行中に歩行者をはねて死亡事故に
以下はニュース記事を引用。
当ニュースについて、自動運転レベルの定義含めこちらのブログでとても分かりやすくまとめてくださっています。↓
うん、素晴らしい考察はネット上にたくさん出ているかと思うので他の方に任せよう(笑)
ここからは、田舎なのに車に乗らない派の自分の感想を書いていこうと思います。
自動運転車 事故についての考察
うーん…今回もまた改めて実感です。車の運転するだけで背負うリスクは重すぎる…(:´Д`)
試験走行とはいえ、もちろんそこまでに自社で様々な検査をパスした上での一般道路走行なはずです。
そして現在も、そして今後も更なる試行錯誤を繰り返して実用化を目指してゆくのだと思います。try & errorですよ。
しかし思うのは、
errorの結果、得られるものが「次なるtryへの道」だとして
その代償に誰かの命(または誰かの未来の可能性)が奪われる
例え事故だったとしても、この現実が将来のための然るべき過程だとは認めがたい。
「運が悪かった」「仕方のないこと」で済ませられない何かがある。
このモヤモヤした気持ちは、システム開発やメーカーに向かうのではなくて、やっぱりもっと根源的な部分で、車を運転することそれ自体に改めて疑問を抱かずにはいられないのです。
なんてったって相手は鉄の塊ですから。スピードを出せる鉄の塊、それ同士がぶつかっても
大事なのに、まして人にぶつかってきて平気なわけないですよ。
操縦側のちょっとした不注意やら不測の事態を、完全になくすことは難しいでしょうし、
そのちょっとしたトラブルで簡単に人ひとり犠牲にしてしまえるもの…それが車なんですよね。
そして周りには車が溢れている。
今自分の住んでいる場所は田舎なので車がないと生活できない、と言う人だらけです。
日ごろ車を運転している人で、事故を起こした経験のある人や、そうでなくても運転していてヒヤッとした経験くらいならある人は結構いるんじゃないかと思います。
個人的な見解になりますが、そういう時にこそ『車の運転』という天秤の全体像が顕在化されるんじゃないかなと思うのです。
・天秤の一方の皿には『己の見積もる利便性』が乗っていて、いつも見えている。
・もう一方の皿には『費用』が乗っているのは見える。天秤は釣り合っている。
ただこの皿の全体像はよく見えていない。
・事故の時、事故になりそうだった時などにようやく天秤の全体が見渡せたと思ったら、費用の皿には実は他にも『誰かの命』『誰かの怪我』『誰かの将来』なんかが乗っていたことに気づかされる
そしたらこの天秤は果たして釣り合うのかなと。
そして自分が見積もっていた利便性って、本当に反対側と釣り合うだけの重さがあるのかなと。
自分はこういう天秤像を意識したときに「田舎に住んでいようが何だろうが車は乗らない方向でなんとかしたいなぁ」と考えるようになりました。
あぁ…全然文章がまとまってない…^^;
何が言いたいのかというと、憤りやら悔恨を感じました。
おわりに
あ、一応誤解なきよう申し上げておきますと、車に対して極端に否定的な気持ちを持っているわけではないです。
車使わずに済むならそれに越したことはない、くらいには思ってます。
この先自動運転技術が実用化されたとしても、事故が完全になくなることはないと思われるし、それまでにまた今回のような残念な事故が起こってしまうかもしれません。
それでも自動運転にシフトしていったことがベストな選択なのか?私たちが当たり前のように自動運転車に乗って生活する日は訪れるのか?
とりあえず今は今後の動向を見守りましょうか。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました^^